人工芝でプレーすることが憧れだった少年時代、
私の人生はやっぱり野球の縁でつながっている。
私の人生はもう「野球」とともに歩んできた人生なんです。
小学校で野球を始めて、中学で野球部に入り、高校は地元名古屋の「愛工大名電」に進んだのですが、そこは先輩に工藤公康さん、1コ下に山﨑武司、10歳下ではイチローが活躍した超強豪校。
中学のときとは格段に異なるハイレベルな環境に、ここでレギュラーを獲るなんて無理だな、と入部して早々に思いました。
それでも同じセカンドのポジションのライバルたちが辞めていったり、違うポジションに移ったりして運良くレギュラーになることができました。
人生で一番の思い出は、高校3年の春の愛知県大会で決勝打を打ったときのこと。
3対4の1点ビハインドで迎えた9回の裏、2アウトとランナーなしの絶体絶命の場面。
私は5番バッターだったのですが、まず3番の選手がフォアボールで出塁。
続く4番の選手がヒットを打ってしまったので(そんな心境でした)、ランナー1、2塁で5番の私に回ってきたんです。
ワンヒットで同点、長打なら逆転、ただし凡打ならのちのち「あそこで名和が打っていればな」と言われ続けるだろうなと、緊張して打席に入りました。
結果は、右中間に長打を放ち、2人のランナーが帰り逆転サヨナラで優勝することができました。
2アウトランナーなしの場面から2人出塁し、打順が自分に回ってきたという奇跡的な状況のなか放った決勝打…。
これ以降、「自分にできないことはない」と何事にも自信が持てるようになりました。
高校卒業後は社会人野球へ進んだものの、25歳まではプロになることをあきらめず…。
ですがプロへの道は厳しく、やがて社会人でも出場機会が減っていき、30歳でチームから戦力外に。
戦力外となった選手の多くは、会社の一般業務を行なうことになるのですが、そこで働く社員たちの会話を聞いていると、競馬やパチンコの話ばかり。
そんな夢のない生活は嫌だと戦力外になったと同時に会社を辞めました。
ですがそれまで野球しかしたことがない人間でしたから、辞めたものの次に何をしていいかがわからない。
それで何をしたかと言うと、ニュージーランドにいる友人を訪ねて、2週間のニュージーランド旅行を楽しみました。
海外での生活が肌に合った感じがして、帰国後すぐに今度は財布とクレジットカード、パスポートだけを持ってほぼ手ぶらでオーストラリアへ。
そこで約3年間、放浪生活のようなことをしていました。
3年が経ってちょうど英語が話せるようになってきたときに、「父が危篤」という連絡を受け日本へ。
通夜の席で、親戚のおじさんやおばさんから「お前は何をやっているんだ、就職してまともな生活をしろ」と言われました。
それで、英語が話せるスキルを活かして商社に勤め、海外から日本では珍しい食材を仕入れて販売する仕事に就いたのですが、そのときに「日本にない商品を海外から持ってきて販売する」ということの楽しさを知りました。
この経験が今の仕事に大きく影響しています。
その後、昔の仲間の紹介で、子どもたちの野球スクールの運営に関わることに。
バッティングセンターの一部を借りて、レッスンをしていたのですが、あるとき知り合いから「使っていない倉庫があるから使ってほしい」と嬉しいお話をいただきました。
そこで、倉庫の床に人工芝を敷いたのですが、モノが良くなかったのか1年も経たないうちに、カチカチのペラペラになってしまって…。
当時、国内で人工芝を扱っているところが少なく、種類もそれほどありませんでした。
次はもっと質のいい人工芝を敷こうと探してみると、中国では人工芝がたくさんつくられていることがわかりました。
そのなかの1社から買い付けることにしたのですが、ミニマムオーダーがコンテナ1本分。
倉庫の床に敷いても、半分以上余るので、余った分を販売してみたら、結構売れたんですね。
それでこれはビジネスになると思い、本格的に人工芝事業を始めるタイミングで、株式会社レクシーズを設立しました。
私の少年時代はまだ人工芝の野球場は少なく、人工芝でプレーすることに憧れを抱いていました。
今、その人工芝を扱う仕事をしていることを考えると、やっぱり自分は野球と縁がある人生なんだなと思います。
この仕事を通じて関わる人たちを幸せにしたい。
レクシーズで、一緒にプレーしてくれる仲間を募集します!
この記事を読んで当社に興味を持ってくれた方は、ぜひご応募ください。
株式会社レクシーズ
創業者 名和政宏