昭和23年に発売され、お酒好きの多くの人々から長年愛され続ける「ホッピー」。3代目として経営する石渡美奈さんは、「20代の頃にはキャリアを考えることもなかった」と言います。石渡さんがいかにしてホッピービバレッジの代表取締役社長となり、仕事に向き合っているのか。どちらかというと中高年の人が飲むものという印象があったホッピーが、年代を問わず楽しまれるようになった背景とは。石渡さんの履歴書から読み解きます。
気の置けない友人たちとの食事や飲み会、手ごろな居酒屋はないかと街を歩いていると目にすることのある「ホッピー」ののぼり。
ホッピーは昭和23年に発売された、ホップと麦芽を使いビールと同じ製法で醸造されたビアテイスト発酵飲料。焼酎をホッピーで割って飲むのが一般的で、ビールよりも安価に飲めるため働く人たちの「仕事終わりの一杯」として愛されてきました。かつては、中高年の人々が飲むものというイメージだったホッピー。しかし今、酒場を見渡すと年代を問わず、多くの方がホッピーを楽しんでいます。
そんなホッピーを製造する「ホッピービバレッジ」の代表を務めるのが、3代目代表取締役社長の石渡美奈さん。
「跡取り娘とはいえ、時代背景も相まって幼少期から就職活動に至るまで自分が経営に直接関わることは頭になかったし、キャリアのことを真剣に考える機会もなかった」と本企画を打診されたことへの正直な感想を語りながらも、「今仕事に対しては常に前向きな気持ちでい続けられている」とも。
最初の就職から家業を継ぐことへの決意、「ホッピー」ブランドの再構築など、自分の使命を探し、ときに迷いながらも走り続けてきた石渡さんのキャリアを振り返っていただきました。
創業家に生まれ、跡取り娘として「婿探し」に
──新卒で入った日清製粉では、どのような仕事をしていたのでしょうか?
私は1990年に大学を卒業したのですが、当時の女性は就職してもその後すぐに結婚相手を見つけて20代半ばで退職し家庭に入る道を選ぶ人が大多数でした。私も当たり前のように3~5年で結婚して退職するのだろうと思っていました。それが女性を取り巻く一般的な環境でしたので、「女性に関する結婚後のキャリア」という概念が私に限らず、当時の社会全体の中で希薄だったと感じます。
──ご自身が会社を継ぐ、という今の形は当時から頭にありましたか?
跡取りとしての使命感のようなものはありましたが、考えていたのは優秀なお婿さんと結婚して、パートナーに家業を継いでもらうことですね。実際に25歳で結婚し、お世話になった日清製粉を退職しました。
でも、当時反発ばかりしていた仕事を辞めてこれから結婚するというのに楽しかったのは退職したその日だけ。1カ月ほどたった頃には「なんだか毎日面白くない」と思うようになっていました。それはなぜかと考えたときに、社会の中に自分の居場所がないからだと思ったんです。
そこで友人の紹介を受け、広告代理店のI&Sにアルバイトとして入りました。週5日、フルタイムの勤務だったので、専業主婦になることを前提とした結婚生活はなかなかうまくいかず、ほどなくして離婚にいたりました。お相手の方には申し訳ないことをしましたね。
子どもの頃から描いていた「夫に家業を継いでもらう」という青写真がなくなってしまい、自分の生活基盤も崩れてしまいました。正社員での転職を目指したものの、当時はバブル崩壊直後の不況でなかなか決まらず、「ここまで社会に必要とされていないのか」と挫折を経験しました。
そこで、それまで事務職だったI&Sでの仕事を営業職に切り替えてもらったんです。担当クライアントを持たせてもらい、同僚たちのまねをしながら仕事をしていきました。すると、自分の社会人経験のなかで初めて「仕事って面白いんだな」と思える瞬間が来て。そのときに初めて「仕事を一生続けていきたい」という意志が芽生えたんです。
──そこから家業へ目が向いたきっかけは?
同時期に細川内閣による規制緩和があり、中小企業であるコクカ飲料(現:ホッピービバレッジ)が日本で5番目に地ビールの製造免許を取得しました。
父が「創業者である僕の父も、ビールをつくりたがっていた。僕は親父さんの夢をかなえたんだ」と語ってくれて、うちの家業って面白そうだなと感じました。そこに自分の「一生仕事をしたい」という想いが重なり、「自分が家業を継げばいいんだ!」と思い至ったんです。
離婚以来「自分は今生で何をなすべきなんだろう?」とさまよっているようでしたが、ついに自分が果たすべき使命と出会えた! と、まさに天啓を受けた気持ちでした。
ところが当初、父にはコクカ飲料への入社を反対されました。オーナー企業でもあり、同族経営をしてきた会社ということで、父にはいろいろな気苦労もあったと思います。私も入社後にそれを感じる場面がたくさんありましたし、今考えると父が「娘に同じ思いをさせたくない」と考えたであろうことも想像できます。そこから1年間、父に粘り強く交渉し、1997年4月からの入社を承諾してもらいました。
かつて日清製粉時代に上司から「あなたはお父さんの背中を見て育ったんだね」と言われたことがありました。きっとそれは、祖父と父が守り抜き、育ててきた家業を3代目として承継するという道につながっていたのだと感じます。
満を持して入社するも挫折。そこで認識した「割って飲む」というホッピーの強み
──コクカ飲料に入社したときのキャリアの状態が最大になっていますね。このときはどんな気持ちだったのでしょうか?
自分の足で歩く人生がようやくスタートしたというイメージでした。振り返ると私はキャリアの状態が常にプラスだと捉えています。
このときが最高ですが、きっと今も同じように最高の状態を更新し続けていて……。経営は当然ながら順風満帆にはいきませんが、家業を継ぐと決めたのは自分です。「ではどうすればこの課題をクリアできるか」というエネルギーが常に働いているので、マイナスな気持ちにはなったことがないですね。入社したときに自分に約束したのは「何があっても絶対に逃げることなく、正面からしっかり向き合う」ということでした。
──力強い思いを持って入社して早速、1999年に「ホッピーハイ」を企画して発売しています。これはどんな観点から開発したのでしょうか?
1990年代、ホッピーのブランドイメージは低迷しており、売上も他社のお酒に押されていました。さらに私が入社したときに感じた問題点は、「社員がホッピーを愛していない」こと。社員がホッピーを飲まないと聞いて、「自社製品を愛していないなんて!」と、今でも日清製粉の製品を愛用している私には驚きを隠せませんでした。
また、ホッピーが市場から良く思われていないことが調査で分かりました。「余ったビールの混ぜ物だ」と言われることもあり、原材料や製法にこだわり抜いているホッピーの良さが、全く伝わっていなかったんです。パッケージデザインがおしゃれでないことや、「割って飲むのが面倒」という声もありました。
そこで考えたのがホッピーハイでした。ラベルのデザインをおしゃれなものにして、水や炭酸水などで割る手間のかからないRTD(Ready To Drink)のスタイルで市場の声に応える商品です。
──ですが、ホッピーハイは1999年の発売から1年半で撤退。どのような理由があったのでしょうか?
まず出だしからつまずいて……。私は入社したてで張り切り過ぎていて、社内でのコンセンサスを取り切らないまま開発に踏み切ってしまったために、チームワークが全く機能しませんでした。例えば商品のフライヤーデザインが理想とは全く違うものが上がってきて……。
さらに発売後、ニーズに十分に応えたはずの市場からも「?」の反応が。「デザインがおしゃれ過ぎてホッピーだと思えない」とか、「ホッピーから連想する味と違う」という声も。割って飲む焼酎と、RTD用のリキュールとでは、味が違って当たり前なのですが、やはりお客さまは「あの味こそがホッピー」という各々のお気に入りの飲み方がある。そこに思いが至っていなかったんですね。
また、ホッピーハイもホッピーと同様のガラス瓶製品だったのですが、缶酎ハイに慣れ親しんだ消費者には受け入れてもらうことが難しく、瞬く間に販売終了となりました。
ホッピーの魅力は「自分で割って飲む」というひと手間です。市場調査では面倒だと言われた部分こそが、他社にはないホッピーの強みになるという教訓を得ました。今でも、あらかじめ割ったスタイルの製品の発売について時折お声をいただきますが、ホッピーにしかない“ホッピーらしさ”が分かった以上、現段階で構想は持っていません。
オーナー企業の経営者が経験する「世代交代の壁」
──2002年には初めて先代から事業承継の話を受け、経営実務にも携わるようになります。社長を目指すにあたって、ぶつかった壁はありましたか?
2006年に起こった「工場長辞表事件」でしょうか。
事業を承継するにあたり、経営を学ぶために中小企業の社長や幹部を対象とした「経営実践塾」を主宰されている株式会社武蔵野の小山昇社長のもとで学び始めました。私は興味を持つとのめり込むタイプなので、勉強するのが本当に楽しかったですね。そのような中、小山社長はいつも「急ぐなよ」とおっしゃっていました。
創業家が事業承継をしていく同族経営では、多くの場合代替わり時に社員からの反発が起こります。それを最小限にするために、いきなり変革を掲げたりこれまでのやり方を否定したりはするな、という戒めとして「急ぐな」と教わったわけです。私も「はい、分かりました!」と勢いよく返事をしましたが、やはり社員からは「これから会社をどうするつもりか」と反発がありました。そんな直後に当時の工場長から「社員の総意です」と辞表を提出されました。
小山社長にはこっぴどく叱られ、直ちにその場を仲介していただき和解に至りましたが、自分がこれから社長になるという責任の重さを感じた出来事でしたね。
私は入社と同時に青年会議所にも入会し、私と同じ「跡取り」の仲間が増えました。そこで、先に跡を継がれた方に同じような出来事が起きることを目の当たりにしたり、話を聞いたりしていました。だから自分の身の上に起こったときにも「ついにきたか」と。
この出来事をうけて、会社の中で変革すべきところは多々ある中、まずは本社から順番に解決していこうと方針を定めて動くことにしました。
「ひと手間」を楽しむ“大人”に向き合い続けた結果、幅広い層に届き始めた
──2010年、創業100周年の節目に社長に就任しています。このとき、ホッピーの業績はいかがでしたか?
ありがたいことに回復傾向にありました。背景はたくさんの追い風が一度に吹いたということだと思います。『ALWAYS 三丁目の夕日』などをきっかけとした昭和レトロブームや、それにともなって立ち飲み文化も復活したこと。また、健康志向の高まりからもホッピーの「低カロリー・低糖質・プリン体ゼロ」という点がアピールポイントになりました。
さらに道路交通法改正に伴い飲酒運転への厳罰化が進む中で、各企業が低アルコール飲料を開発し始めましたが、ホッピーは元々アルコールが約0.8%であったことも改めて注目されたポイントのひとつでした(※1)。
また、女性の社会進出が一段進んだ時期でもあり、ホッピーという「おじさんっぽい飲み物」を売っている3代目もどうやら女性らしいというギャップもメディアから注目していただけました。それぞれの支流が一本にまとまり、ひとつの大きな流れになって背中を押してもらえた時期でしたね。
※1:ドライバーや妊婦の方は飲用をお控えください。
──近年、居酒屋では「ホッピー」の看板やのぼりをたくさん目にします。石渡さん自身は、ホッピーが「おじさんっぽい飲み物」から変容していった、若い世代に受け入れられたと感じたのはいつ頃でしたか?
私たちは若い世代や女性だけをターゲットにマーケティングしたことがありません。
正直に申し上げると、若い人にとってホッピーは面倒だろうなと思うんです(笑)。RTDのように手軽に購入してサッと飲める方が恐らく合っているでしょうし、ジョッキ、焼酎、ホッピーをキンキンに冷やして自分のための一杯を完成させるあのひと手間を楽しめるのは、年齢を重ねたからこそではないかと。ホッピーは「大人の“粋”を楽しむドリンク」とお声をいただいています。
今、ホッピーを愛してくださっている方というのは、昔お父さんに飲み屋さんに連れられて、そこで何やらビンから飲み物を注いで飲んでいる。ホッピーというらしい。どんな味なんだろう……と思って育ってきて、大人になって初めてホッピーを飲んで「自分も大人になったな」と感じたんです、という方が本当に多いんですよ。そのような経験は、小さなことのように見えて人生の中ですごく大切なものだと思っていて。
ホッピーはターゲットを限定しておらず、間口を広く持っています。さまざまなイベントや企業とのコラボなどに出店させていただく中で、若い方がホッピーを手に取ってくださる機会が増えましたし、「おいしい!」「初めて飲んだ!」と楽しんでくださることは大変嬉しく思いますね。ホッピーの「ひと手間」を面白がっていただけるのであれば、もちろんどなたでもウェルカムです。
──若い世代や女性に向けて積極的にはアピールしてこなかったんですね。
そうですね。女性が飲んでくださるようになったのはおそらくきっかけがあって。美容雑誌の「VOCE」で2002~2003年ごろに霞ヶ関のキャリアウーマンからの「勤務後に新橋や虎ノ門でホッピーを飲んでいる」という投稿がきっかけとなり、ホッピーを記事にしていただきました。その頃から「おじさんっぽい飲み物」であるホッピーに変化が出始めましたね。
霞ヶ関という男性社会のなかで、まさに自分のキャリアを切り拓いて戦っている女性たちがホッピーを愛してくださっている。大変嬉しく感じましたし、力になるエピソードでした。
自分を慈しむ時間やひと手間に「いいな」と共感共鳴してくださる方々に一層ホッピーが愛され続けるように努力していく所存です。
経営者として、会社の顔として。“IZAKAYA”文化を世界へ発信したい
──2023年からは新たに大学院へ進まれるんですね!
2009年のWBS(早稲田ビジネススクール)と2014年の慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科を経て、これで3つめになりますね(笑)。
これまでは経営やリーダーとしてのスキルを磨くための学びでしたが、今回は地球環境研究科。なぜ? と思われるかもしれませんが、ホッピービバレッジのみならず、地球をよりよい未来へと導くために自分の立場から今何ができるのかを考えての結果です。
今や地球環境に目を向けていない企業はお客さまからも採用市場からも選ばれなくなっていくだろうと感じています。ここ数年、新卒の志望者からは必ずといっていいほど環境への配慮やSDGsにまつわる取り組みについて質問がありますし、シンクタンクなどからの企業調査でもサステナビリティについて質問があります。つまり企業の評価指標に「環境への配慮」「サステナビリティ」が含まれているということです。
コロナ禍からのこの2年半で、社会は大きく変わりました。私は激しい変化の中で、「これからの時代、企業そして経営者には何が求められるのか」と考え続けていました。次に起こる波を見極め、その波に乗らなければ会社に未来はありません。そこで辿り着いた現時点での仮説が、地球環境問題と少子高齢化への取り組みです。
これらは経営者が理解し、旗を振って取り組まなければならない課題だと捉えています。だからこそまずは私が、地球環境問題について学びを深める必要があると感じました。
──日本で注目度の高いSDGsやESGですが、貴社ではどんな取り組みをしていますか?
地球環境問題が叫ばれる以前から、ホッピーの容器は74年間リサイクル効率の高いガラス瓶ですし、醸造後の産業廃棄物となる「麦芽粕」「ホップ粕」は牧場で牛や豚の飼料や肥料として活用していただいています。麦芽かすは栄養価が高いので、牧場の方からも喜ばれていますね。
ホッピーは麦芽、ホップ、酵母という自然の恵みから生まれています。地球環境への想いは祖父や父も大切にしてきたことであり、それが私の代になって注目されるテーマとなったというだけのことですが、次の世代やその次の世代にこの美しい地球を遺し安心して住み続けられるように、今社会に生きる私たちが取り組んでいく必要があると考えているんです。
──経営者として走ってきた中で、大切にしてきた考え方はありますか?
祖父がこの会社に想いを込め、父が大切に受け継いだ創業理念を、石にかじりついても守り抜くこと。そのためにも心身ともに健康でいることですね。会社で最も仕事をしていなければならないのは社長です。そうでなければ社員がついて来ないと私は考えていますから。しかしながらトップである私が仮に不調であれば、その雰囲気が社員にまで、ひいてはお客さまにまで流れてしまいます。お客さまのお役立ちに一所懸命に励むためにも、心身ともに常に元気でいることを大切にしています。
当社は2018年から健康経営に取り組んでいます。社員一人ひとりの幸せな人生を実現するためにも、心身の健康を守り情熱を持って仕事ができることを大切にしていますね。
──今後のキャリアで、やりたいことはありますか?
最低でも105歳まで現役でいたいと思っています。社長でい続けることはないとしても、何かしらの形でホッピーに関わっていたいですし、社会の中でお役に立てればと考えています。
ホッピーをどうしていきたいかについては、いろいろと感じ、考えていますね。その中のいくつかはすでに実現に向けて動いています。ホッピーの需要は、時代や市場によって様変わりしてきました。今回のコロナ期ではある日突然人と人との繋がりが分断され、会いたい人に自由に会えることの有り難さと重要性を多くの人が教えられました。同時に、居酒屋という「場」やホッピーという「ツール」の意味や意義が大きく見直されたと考えています。
当社はブランディングの一環としてホッピーをニューヨークのごく一部の店舗で提供しているのですが、あるときタクシードライバーの方から「日本人がやっている“IZAKAYA”が大好き! 衛生的で、接客も丁寧で、料理の種類が多いし、日本の料理はとてもおいしい」と言われたことがあって。
ステーキはステーキ屋さん、中華料理はチャイニーズレストラン、と、食べるものと食べる場所が決まっているアメリカ人にとって、和洋中なんでも自由に食べられる居酒屋が貴重な場なのだそうです。日本にいると当たり前過ぎて気付かないものですが、居酒屋という場の価値を改めて知らされたきっかけになりましたし、そんな居酒屋と深く結びついているホッピーを祖父と父から受け継ぐことができた私は、なんて幸せ者なんだろうとうれしくなりました。
コロナ期を経て、お酒を飲むことが目的であった「居酒屋」も、家でも会社でもないサードプレイス的な「居場所」としての役割が見直されるようになったのではないかと感じています。
今後、ニューヨークに日本の食文化を楽しめる「mina-chaya(ミーナ茶屋)」を展開予定です。日本が世界に誇る “IZAKAYA”文化をホッピーとともに発信していきます。そして違う土壌から生まれ育った「ホッピー文化」を日本に逆輸入したときの化学反応も楽しみです。
──石渡さん、ありがとうございました!
取材・文:藤堂真衣
撮影:安井信介
編集:野村英之(プレスラボ)