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再生医療の希望、世界初のミニ肝臓は「きたない研究」といわれた先に|武部貴則の履歴書

再生医療研究者、武部貴則さんの履歴書を深堀りします。24歳で、再生医療の希望の種となる、ミニ肝臓の基となる技術を確立。26歳で科学誌『ネイチャー』に論文を発表し、その後、史上最年少で東京医科歯科大学と横浜市立大学の教授に就任するなど、圧倒的な実績を積む武部さん。が、そのプロセスは順風満帆ではなく、批判との戦いの連続だったそうです。「人と違うことを恐れない」と語る武部さんが、いかにして「人と違うこと」に挑み続けたのか。その道筋を聞きました。
ぼくらの履歴書_武部貴則さんメインカット

iPS細胞から小さな細胞のかたまりをつくり、それを移植した人の体内で育てる。画期的な「ミニ肝臓」の技術が世界的に注目を集めています。開発したのは、臓器再生医学の研究者・武部貴則(たけべ・たかのり)さん。

医学部を卒業後、そのまま研究者となった武部さんは24歳でミニ肝臓の基となる技術を確立。26歳で科学誌『ネイチャー』に論文を発表し、脚光を浴びました。31歳の時には史上最年少で東京医科歯科大学と横浜市立大学の教授に就任。現在はアメリカを拠点に、再生医療の最先端研究に取り組んでいます。

華々しい経歴。しかし、研究者の間では“医学の常識”に逆らうような武部さんのアプローチを批判的に見る向きもあり、20代の頃は苦渋を舐め続ける日々もあったといいます。それでも信条を曲げず、自身を貫き通してきた武部さんのこれまでを振り返ります。

医学部卒業後、医師ではなく研究者の道へ

──武部さんが医学の道を志したのは、お父様のご病気がきっかけだったそうですね。

私が小学3年生の頃に父が脳出血で倒れ、治療のために半年ほど家に帰ってこない時期がありました。そこで祖父母をはじめ、様々な大人に「お医者さんになれば、お父さんのように病気の人々を助けられるんだよ」と教えられたのが、医師を目指すきっかけの一つになりましたね。

武部貴則さんの履歴書

武部貴則さん:1986年神奈川県生まれ。東京医科歯科大学/横浜市立大学教授。横浜市立大学を卒業後、臨床研修には進まずそのまま、研究者の道に入る。2013年、iPS細胞を使用した「ミニ肝臓」の生成に成功し、『ネイチャー』に論文が掲載され大きな注目を集める。ミニ肝臓はその後もアップデートを続け、2019年には肝臓を含む4つの臓器を一体として再生する「多臓器再生」へと進化させ、これも『ネイチャー』に論文が掲載された。現在では自身の提案する「Street Medical」構想の実現化に向けたプロジェクトを横浜市立大学で、ミニ肝臓に関する研究は東京医科歯科大学や米シンシナティ小児病院で行うなど、複数の拠点で活動する。

──その後、横浜市立大学の医学部を卒業されましたが、臨床研修に進まず、再生医療の研究に入られました。なぜ、臨床医ではなく研究者の道を選んだのでしょうか?

当初は私も臨床の道に進むつもりでした。今でも臨床には戻りたいと考えています。ただ、6年生の時に当時の大学の副学長から「いま、研究者がどんどん減っている。ポジションを用意して給料を出してあげるから、そのまま研究を続けなさい」と言われたんです。身もふたもない理由ですが、早く社会人になって給料をもらいたいと思っていた自分にとって、副学長の提案は渡りに船のようなものだったんです(笑)。ただ、それだけが理由ではありません。研究にはすごくクリエイティビティが必要です。なので、最もイマジネーションが豊かで脂が乗っている若い時期に研究に没頭したいという気持ちがあったんです。ならば先に研究をやって、ダメなら臨床に戻ろうと考えていましたね。

──それで、2011年に横浜市立大学医学部の助手に就任されたのがキャリアのスタート。そこではじめて「肝臓」の研究に着手されています。

武部貴則さんのキャリグラフ1

じつは高校時代から臓器移植への興味は抱いていました。医学部でも本当は肝臓移植の研究に関わりたかったんですが、何の経験もない若造には、なかなか教授の許可が出ません。許されたのは軟骨の再生の研究でした。医学部の5年間は、ひたすら軟骨の研究をしましたね。でも、その結果、副学長から医学部助手のお誘いをいただきましたし、同時期に教授からも肝臓の研究を許された。それで2011年にやっと、ずっとやりたかった研究をスタートできたんです。

──臓器移植ではなく、臓器再生をテーマに選んだ理由は何だったのでしょうか?

臓器再生をやりたいと思ったきっかけは、医学部の学生時代に米コロンビア大学で研修を受け、肝臓移植の治療に関わったことです。そこで知った臓器移植の現実は、私にとって衝撃的なものでした。ドナーが圧倒的に不足していることから、臓器移植を受けるには長い長い順番待ちがあります。つまり、実際に移植を受けられ、命が助かる患者さんというのは氷山の一角で、お金もツテもない人はケアを受けられずに亡くなっていく。こうした現実はアメリカだけでなく日本でも同じでした。もちろん、現場で1人ひとりの命を救うことも重要です。ただ、臓器再生の研究に進めば、もっと根本から多くの人の役に立てるのではないかと思いました。

「ミニ肝臓」を確立するも、2年にわたり受け続けた批判

──2011年に研究を開始し、わずか2年後の2013年には「ミニ肝臓」の論文が英国の科学誌『ネイチャー』に掲載されています。改めて、「ミニ肝臓」誕生の経緯を教えていただけますか?

2011年に研究を開始してから、実践ベースで様々な実験を繰り返していました。ミニ肝臓のヒントになったのは、そのうちの一つの実験です。しかも、ほとんど偶然ともいえるような発見でした。

ある日、細胞培養には適さないシャーレ(培養皿)を使って3種類の細胞を混ぜてみたんです。前駆細胞と呼ばれる、肝細胞や血管になる前の細胞や組織をサポートする細胞などです。これをシャーレの表面に巻いた翌日、モコモコとした立体的な組織ができていることに気づきました。普通の培養皿で培養した細胞というのは顕微鏡でなければ視認できませんが、それは肉眼でもしっかり確認でき、ピンセットでもつまめるほどでした。

培養が始まったばかりのミニ肝臓

培養が始まったばかりのミニ肝臓。

──あえて細胞培養向きではないシャーレを使ったことが奏功したのでしょうか?

はい。培養のためのコーティングなどをせず、細胞を自由に動ける状態にしたことで、自ら立体になる力が発揮されたのだと分かりました。この発見を機に、これを「ミニ肝臓」の技術として育てていこうと決めたんです。

──しかし、キャリアグラフは、2011年にマイナスへと転じています。

武部貴則さんのキャリアグラフ2

ミニ肝臓の研究手法は、一般的な研究手法とは馴染まないものでした。それゆえに、「きたない研究だ」と批判されることもありました。

──「きたない研究」とはどのような意味でしょうか?

科学的な研究においては、ときに「要素還元主義」という考え方が重視されます。要素還元主義は、簡単に言うと、複雑な事象を小さな要素レベルまで分解し、その要素の働きを研究し理解する、という考え方です。臓器研究で例えれば、臓器を細胞の単位まで分解し、細胞の中でさらに細胞内小器官や分子という小さな要素までどんどん分解する。その分子の動きが臓器で起きていることと、どのような因果関係にあるのかを見極める、と。これがスタンダードな研究のやり方です。

一方で、ミニ肝臓研究は複数の細胞を混ぜるなど、要素還元主義とは馴染まないアプローチです。ある人からすれば、私の研究は「要素がぐちゃぐちゃに入り乱れる“きたない研究”で、アカデミックな価値はない」と見られる。いまでこそ、私と似たようなアプローチをとる研究も増えてきましたが、私がミニ肝臓の研究を始めた当初はかなり批判を受けた記憶があります。

──だからキャリグラフは低いのですね。

それにはもう一つ理由があります。2013年にネイチャーに掲載された研究成果は、実は2011年の時点ですでに確立していました。ただ、掲載にいたるまでには、他の研究者の批判や指摘の一つひとつに対応せねばならず、これに2年かかりました。かなりつらい時期でした。

──とはいえ、批判を無視するのではなく、しっかり向き合ったと。

そうです。特に私がいたラボは『ネイチャー』のようなハイレベルな雑誌に論文を出したことがなかったので、かなり厳しく査読され、ものすごい数の指摘や批判が続々と送られてきました。しかし、こうした意見にしっかり対応できなければ、すぐにその科学誌からはリジェクトされてしまいます。論文自体は4ページほどだったのですが、それをサポートするデータの資料は最終的に200枚ほどに及びました。研究がほぼ完成してから論文を発表するまでの2年間は、ずっとその作業に追われていましたね。

ときに絶望的な気持ちにもなりましたが、とにかく早く独立して、自分の好きなことをやりたいという強い思いがありました。そのためには、絶対にいい論文を書いて、世界的な科学誌に掲載される必要がある。そんな考えが、当時の自分にとって支えになったように思います。

武部貴則さんのインタビューカット

──良い論文を形にすることが、ご自身の理想に近づくためには不可欠だったのですね。

論文だけでなく、「特許を取得して、自分の技術を作ること」「研究予算を確保し、チームを作ること」が欠かせません。この3つは、研究者にとって三種の神器といってもいい。ですから研究を進めつつも、研究費の予算が出るとあらば、ありとあらゆる公募に応募しましたね。最初に応募したもの以外、全て採択してもらえたことは、大きな自信につながりました。

──そして、徐々に対外的にも武部さんの研究が認められていったわけですね。以後、毎年のように新しい成果を発表されています。

ミニ肝臓は2013年の論文発表以降、毎年アップデートを重ねています。ただ、まだまだ欠けている部分や成長が必要な部分がたくさん残っていて、これは生涯をかけて挑むレベルの課題だと認識しています。その一方で、「患者さんの役に立つのは100年後」であってはならない。できるかぎり早く患者さんの助けにならないといけないという使命感もあります。なので、今後は「本物の肝臓」を作る研究を進めつつ、これを応用して直接患者さんにメリットをもたらす薬や治療法の確立を2年以内には実現したいと考えています。

国内に息苦しさを感じ、研究拠点をアメリカに

武部貴則さんの実験している様子

「自分の責務は、研究のアイデア作りやデザイン、ディレクションで、最近はほとんど作業することがないんです」と武部さんは笑う。研究をともにするスタッフの作業や手順は武部さんがディレクションしている。

──論文発表後の2014年にはスタンフォード大学の客員准教授に、2015年にはシンシナティ小児病院オルガノイドセンターの副センター長に就任されています。このあたりから、研究の拠点を海外に移されたんですね。

『ネイチャー』に論文を発表した翌年から、積極的に海外へ出るようになりました。すると、世界中の様々な研究機関からオファーが届くようになったんです。その1つがシンシナティ小児病院でした。複数の契約を吟味して交渉を重ね、ポストを選ぶプロセスはエキサイティングでしたし、自分のバリューを高めていく勉強にもなりました。現在も、様々なオファーをいただいていますが、この時の経験が交渉に生かされていると感じます。

──2011年から続けてこられた研究の成果が、ようやく世界で評価された瞬間のように感じます。だから、グラフも非常に高いのでしょうか。

武部貴則さんのキャリアグラフ3

そうですね。海外で研究活動を始めたのには、正直、日本国内の環境が息苦しくなってきたという側面もありました。スタンフォード大学に籍を置いたのも、いったんガス抜きをするつもりで先輩について行ったというのが正直なところです。

──その息苦しさとは、どんなものですか?

まず、日本では基礎研究に本気で取り組むことがほぼ不可能です。それは、予算がまったくつかないから。まともな基礎研究にさえ100万円や200万円の予算しかなく、研究員を1人雇用することすらできません。私は“最初の道”を作るような、基礎的なフェーズの研究をすることに使命感を持っていて、そのためにはアメリカなど基礎研究に力を入れている国を拠点にする必要がありました。

シンシナティ小児病院内に、武部さんのラボが立ち上がったころ

シンシナティ小児病院内に、武部さんのラボが立ち上がったころ。

──それでも、日本の研究機関にも籍を置くなど、完全にアメリカにシフトしたわけではない。国内にも拠点を残しておく理由はあるのでしょうか?

研究以外の部分、例えば企業とアライアンスを組んで何かを仕掛けるといった場合には、アメリカよりも日本のほうがやりやすいからですね。ミニ肝臓の生成を例にすると、培地(細胞などを成長させやすくするための人工的な環境)は味の素社の協力を得ていますし、自動培養装置はパナソニック社の協力を得て……など、多くの企業とのアライアンスが不可欠です。東京には国内の主要な大企業や規制当局などが密集しているので、すぐに連携して事を起こせる。ですから今は、基礎研究はアメリカで、そこから少し応用のフェーズに進むための下ごしらえを日本でやるといった具合にすみ分けをしています。

──なるほど、戦略的ですね。そして、31歳の時には東京医科歯科大学の教授に就任されます。これは史上最年少とのことですが、若くして教授になったり、研究の第一線を走るというのは、相当な困難も伴うのではないかと思います。武部さんも、若いことでやりづらさを感じたことはありますか?

正直、ありますね。若さゆえに理不尽に感じられる扱いも受けましたし、悔しい思いもしてきました。詳しくは言えませんが(笑)。

一方でアメリカは年齢をまったく気にしません。完全に対等な目線で、いい仕事をしたり研究予算をとってくれば認めてもらえるシンプルな構造です。英語ができて、海外での生活を苦にしない研究者であれば、日本で基礎研究をやる理由はないように感じます。

「人と違うこと」を恐れない

──武部さんは臓器再生の研究と並行して、広告的手法を用いた医療「Street Medical(ストリートメディカル)」にも取り組んでおられます。これは、どういったものでしょうか?

広告におけるデザインやコミュニケーションの手法などを用いて、医療やヘルスケアをアップデートする試みです。医学はここ数十年で目覚ましい飛躍を遂げ、様々な病気が克服されるようになった。結果、現在は病の質が大きく変化し、生活習慣病や癌や心の病などの存在感が増しています。いずれも長い期間をかけて発症にいたる病気で、これに対して病院ができることはほとんどありませんでした。

私の父の病気はまさにこういうものでした。父は忙しく病院に行く機会もない。健康診断結果もまともに聞かない。血圧かなり高かったのに、薬も飲みたがらない。結果、脳出血で倒れてしまいました。こうした人に病院はなにも提供できるものができないんです。こうした現実をなんとか変えられないか、私なりに考えてたどり着いたのが、「Street Medical」というアプローチです。人の普段の生活のなかに医学との接点を築けば、父のような病院とコンタクトしたがらない人の健康問題に対しても、医学が介入できると考えたのです。

「Street Medical」ではこれまでの医学を基礎とし、病院の外の「街」や「生活」にまで医療を拡張していくことを目的としています。2019年には横浜市立大学の先端医科学研究センター内に「Street Medical School」も開講しました。医療関係者やクリエイターによるグループワークを行い、様々な課題解決を目指しています。

──具体的には、どのような手法が挙げられますか?

例えば、グループワークで出た事例で面白かったのは「チョコレートを使って、病気の兆候を知る」というもの。一部の病気は「匂いの異常」から始まることが知られています。花粉症や副鼻腔炎、認知症、最近では新型コロナウイルス感染症もそうです。ということは、自分の“匂いのかぎ分けの基準”みたいなものを持っていれば、早期に異常を感知することができるのではないかと考え、チョコレートの匂いがグラデーションになっているプロダクトを開発しています。チョコレートという身近な食べ物を使って、健康意識の向上をはかるのが目的ですね。

──予防医療のように何か制限を伴うものではなく、生活のなかで自然と健康意識を高めていくというのがポイントなんですね。

じつは私は予防医療という言葉が嫌いなんです。予防とは一種の押し付けです。例えば「タバコは喉頭癌のリスクになります。だからやめましょう」と。そうではなく、どうやってタバコをやめるのか? あるいは、本当にタバコだけが悪なのか? というところまで含めて、もっと人間に寄り添って考える必要があるんじゃないかと思っています。

──お話を伺っていると、武部さんはそれまでの常識にとらわれず、物事の根本的な部分にアプローチしているように感じられます。そうした視点や考え方は、どのように培われたのでしょうか?

そんなに深い理由はありませんが、強いて言えば……昔から「人と違うこと」に対して恐怖心がなかったというのはありますね。例えば中高はいわゆる進学校で、大人たちから「受験を頑張りなさい」と言われていました。しかし、そう言われると私は部活のほうを頑張りたくなる(笑)。高校3年生まで、全ての時間と労力をブラスバンドにかけていましたから。それでも目標としていた関東大会に僅差で出られず、おまけに受験でも苦労しました。あの頃が、人生で一番辛い時期でしたね。今回のキャリアグラフに高校時代も含めるのならば、間違いなく最低のどん底です(笑)。それに比べれば、今はどんなに辛いことがあっても大丈夫だなと思えます。

武部貴則さんのインタビューカット正面

──高校生にしてすごい胆力ですね。天邪鬼……ともいえますが。

本当にそうなんですよ(笑)。医学部に入ってからも、多くの同級生がまるで金太郎飴みたいにみんなが同じ方向を見ているんです。整形外科に進みたければ、ラグビー部に入って先輩とパイプを作らなければならない、内科ならばサッカー部だ、のように、医学部という狭いコミュニティの中で、同じような勉強をして、同じような方向性を見る。こんな雰囲気がすごく苦手でした。そういう抵抗感や拒絶感が根底にあって、自分は独自の道を進もうと考えたのだと思います。

──しかし、その結果、誰にもできなかった臓器再生の新しい技術が実現するかもしれない。最後に、今後の展望を教えていただけますか。

現在は研究に従事していますが、本来は根っから臨床医になりたい人間です。とにかく、患者さんを助けたい。現在はそれがまるでできていない状態ですので、まずは1日でも早く今の研究を結実させるために全力疾走したいと考えています。

また、もう一つはチームとしての成長です。現在、世界中のラボに40名以上の研究員がいるのですが、全員が違う専門性や考え方を持っています。手前味噌ですが、かなり良いメンバーが揃っているんです。そうしたメンバーの雇用を守りながらパフォーマンスを高め、ゆくゆくは彼・彼女たち自身が新しい道を作っていける人材に成長してくれたらと思います。そうすれば、もっと大きなレベルで世の中に貢献できるはずですから。

取材・文::榎並紀行(やじろべえ)