
大勢の人とスタジアムで盛り上がる一体感。応援グッズを揃いで身に着け、ビールとともにプレーを楽しむ──野球観戦は、なんとなく楽しそう。たとえ、野球に詳しくない人でも。 こうした、「プロ野球は、誰もが楽しめる」という空気を作り上げた立役者こそ、2011年12月にプロ野球史上最年少で球団社長に就任した池田純(いけだ・じゅん/ @ikejun )さんです。
就任当時のベイスターズの、年間の赤字は約25億円。池田さんはマーケティングのプロとしての経験を武器に球団を「経営」し、5年間で年間売上を52億円から110億円超へと倍増させ、球団を黒字化まで導きました。閑古鳥が鳴いていた横浜スタジアムは、やがて幅広い世代の人々が集まる、熱気あふれる人気スポットとなったのです。
ベイスターズを人気球団へと激変させた空気の作り方や、退任後4年にわたる「浪人生活」、その先で出会った埼玉の地域活性化という新たな使命や、オーナー兼取締役に就任したさいたまブロンコスについて伺いました。

池田純さん:1976年生まれ、横浜出身。2000年に早稲田大学商学部を卒業後、住友商事、博報堂を経て有限会社プラスJを設立。2007年には執行役員として株式会社ディー・エヌ・エーに入社し、マーケティング部門を統括した。2011年、35歳で横浜DeNAベイスターズの初代社長に就任し、NPB12球団で史上最年少の球団社長となった。任期の5年間で、球団のホームである横浜スタジアムの友好的TOBの成立をはじめ様々な改革を主導し、年間約25億円の赤字を出していた球団運営の黒字化を実現。観客動員数を1.8倍に増やすことに成功した。退任後、日本プロサッカーリーグ特任理事、スポーツ庁参与などを経て、2019年一般社団法人さいたまスポーツコミッション会長、翌年にはバスケットボール男子B3リーグ「さいたまブロンコス」オーナー兼取締役に就任。新生ブロンコスの舵を取るとともに、さいたま市と連携しながらスポーツで地域活性化を目指す。著作に『空気のつくり方』(幻冬舎)、『横浜ストロングスタイル』(文藝春秋)など。
水泳でプロになれないなら、社長になるしかない
──子どものころは水泳に打ち込んでいたと伺っています。ジュニアオリンピックの選手になるほどの実力だったんですよね。
元々はサッカーやったり野球やったり、いろいろなスポーツをやっていました。その中で水泳だけが日本トップのレベルまで伸びてしまって(笑)。 その後、水泳でオリンピックを目指すかどうか悩んでいたんですけど、15〜16歳のときに腰を痛めてしまって、プロになる道は諦めました。

いろいろな競技にチャレンジしたおかげで、自分に向いているものに出会えたように思います。ケガで水泳選手になれないとわかって、「じゃあ次は社長になるしかない」と思いました。
──水泳の次の目標が、いきなり社長ですか?
何かで1番になりたかったんです。スポーツの道以外で1番といったら、「社長」かなと。響きがカッコいいと思ったんじゃないかな。深く考えたわけではなくて、若気の至りみたいなものです(笑)。「スポーツがダメなら、ほかに1番になれるのは何だろう。あ、社長だ!」と単純に考えたのでしょう。
社長になるからには英語を話せなければという思いがあり、大学4年生になる前に1年休学してオーストラリアに行きました。サーフィン漬けの日々を送って、シェイピング(サーフボードの板を削る工程)から何から教えてもらう機会に恵まれて、「私はサーフィン関連の仕事で社長を目指そうかな」とも思ったのですが、オーストラリアと日本とではサーフィン文化も競技レベルも全然違うんです。「日本でサーフィンを仕事にするのはマーケットが魅力的ではないな」と判断して、英語だけは身に付けて帰ってきました。
日本に戻ってからはすぐに就職活動です。大学の授業で一番楽しかったのがマーケティングだったので、「マーケティング」と「英語」を軸に会社探しをしていましたね。
花形部署に配属されても気持ちはどん底に
──その後、住友商事に入社されますね。しかし意外にもキャリアグラフはマイナス5です。

入社当初はもうイケイケですよ(笑)。当時の住友商事は映画事業を始めたり、衛星を飛ばしてテレビ事業を始めたりと、マーケティングの川下に近い新事業を始めていました。若い人がそういった新規事業部に行くと、分社化したタイミングで社長になる機会もあると聞いて、住友商事に入ったんです。でも、新人研修が終わって1ヶ月後にはどん底になりました。
──1ヶ月で……。一体何があったんですか?
マーケティングの仕事に携われる、という期待を持って入社したのに、研修が終わって配属されたのが、石油掘削用パイプという実に商社らしい伝統ある鉄鋼部門。私がイメージしていたマーケティングの仕事ができる環境ではありませんでした。しかも「鉄から出るときは左遷だ」と言われてしまう。
鉄は重厚長大な世界で、活躍するまで10年の下積みがいることも知りました。社長や幹部が排出され続ける花形部署だったので、周りからは羨ましがられましたが、私のなかではどん底。「自分が望む道は、自分で切り拓かなくてはならない」と、早々に博報堂に転職を決意したんです。
若い頃は「マーケティングとクリエイティブといえば広告代理店だ」と思っていて、博報堂は新卒でも受けていたんですけど、最終面接を受けずに住友商事に決めてしまったのです。それが、ちょうど中途を募集していたので「かつて最終選考まで進んでいた池田ですけど、もう1回チャンスをくれませんか」と連絡したら採用されました(笑)。モチベーションもまた最高の状態です。
「暴君ハバネロ」大ブームも、評価されない現実
──ようやく、念願だったマーケティングの仕事ができるようになったんですね。

仕事の内容には大満足だったけど、社内政治に巻き込まれてしまいまして。実力ではなく「誰に付いているか」とか、「どういう発言をしたか」で評価される現実を目の当たりにして、大きな組織に所属することの限界を見た思いでした。もっと自由な世界で仕事をしたい、そんな気持ちが募っていました。
──キャリアグラフで転機となっているのは、2年後の2003年、27歳のときですね。東ハトの企業再生プロジェクトチームに関わって「暴君ハバネロ」という大ヒット商品を手掛けることになります。
このときやっと、ずっと学びたいと思っていた先輩と一緒に仕事ができたんですよ。私のマーケティングの師匠ですね。後々一緒に仕事をするような仲間たちとも、このときに出会いました。
東ハトは一度倒産して経営的に厳しい状況にあったので、費用が大きいテレビCMでドーンと宣伝、というわけにもいかない。そんななかでマーケティングやPRを考えて、事業会社で商品作りにも携わって……。アイデアを生み出して世の中を楽しませるという根幹を学んだ時期でした。一番成長できた時期じゃないかな。
──このときの経験から、どんなことを学ばれたのでしょうか?
世の中の空気……、私たちはコンテクスト(ここでは「潮流」に近い意味で使用されている)と呼びますが、世の中のコンテクストを読み取って、そこに社会や多くの人々が楽しめるようなもの、共感できるような商品やサービスを提供することが、最大のマーケティングだという考え方ですね。挑戦の大切さや、困難な仕事ほど得られる果実が大きいことも学びました。
ただ、「暴君ハバネロ」が大ブームになって、東ハトも再生の道を歩み始めても、広告代理店に所属する人間は、テレビCMのような大きな予算を取ってこないと評価されない。ここでまた組織のひずみに直面してしまうんです。石の上にも3年だと考えていたので、3年半で退職して独立して、またモチベーションは最高です。
夢だった社長になるも、社員は自分ひとり。「本当の意味で社長になりたい」
──それが2005年の「有限会社プラスJ」の設立ですね。とうとう社長になる夢がかなったのですね。
そう。28歳のときですね。企業経営のコンサルティングや企業再生のマーケティングを扱う会社を設立しました。ただ、社長になったといっても社員は私ひとりだし、オフィスは自宅です(笑)。いま思えば、激動の時期でしたね。なにしろ、自分でいちからクライアントを探すことからスタートですから。そのときのクライアントの1社がまだ小さかったDeNAでした。東ハトのプロジェクトに携わっていたとき、子会社の設立からECの運営まで全部私が任されていて、そのときのパートナーがDeNAでした。その縁で、今度はDeNAのコンサルティングを依頼されたんです。
他にも何社か仕事を頂いていて、順調な反面、ひとりでやることの限界が見えてきたのがこの2005〜2006年頃でした。まだ20代だし、大きな勢いのある環境に行かなければ、自分の成長はないと感じていました。「本当の意味で企業の社長になりたい」と思いが強くなり、そのための道を模索していました。
そんな矢先に、DeNAから「好きに部署を作っていいので、うちのマーケティングを統括してください」と頼まれて、マーケティング部門を管掌する執行役員を引き受けたんです。
200億円のマーケティング予算を“ぶん回す”日々

DeNAもどんどん成長し、あれよあれよと年間200億円くらいのマーケティング予算を使うようになっていったんですよ。CMを1週間で何本も作り、ウェブからテレビからあらゆる施策を全部やった。私の引き出しにあるものすべてを使い果たすくらい、濃密な3年間でした。あのときの私は、まるで「マーケティングの権化」です(笑)。マーケティングの世界ではこれ以上やることはない、というくらいやりつくした実感があった。
──マーケティングを本格的に学んだのは博報堂での3年半ですよね。その期間に得たノウハウだけでここまで幅広い仕事ができたのはどうしてですか?
実践するなかで鍛えられたからだと思います。自分が責任者になって、生身で200億をぶん回し続ける毎日があったからこそです。DeNAは若い会社でしたし、私が管掌するマーケティングチームの仲間にも、自由に仕事に取り組んでもらっていました。IT業界で初めて全国CMを打ったのもDeNAなんですよ。テレビ番組を作ったり、映画やマンガも作ったり、とにかく、やれることは全てやった。そして成果も出てました。
ただ、やっぱり社長になりたかったので、そろそろ退職しようと思っていたときに、NTTドコモとDeNAが合弁会社*1を設立し、その社長をやらないか、と話が回ってきたんですよ。
──今度こそ、念願だった“本当の意味での”社長ですね。
そのとおりです。そこからは1年間、また激務。ちょうど世の中がガラケーからスマートフォンに移り変わるタイミングだったので、スマートフォン向けの電子書籍サービスを展開してみると、1年で売上は10億円以上です。
ただ、順調に滑り出したと思った矢先、「キミの事業は、本社が引き継ぐことになったので、池田、社長を辞めて本社役員に戻ってきて」と。結局、組織にいるとこういう目に遭うんですよ。それで今度こそ会社を辞めようと思っていたところで、DeNAによるベイスターズ買収が決まったんです。すぐに球団社長に名乗り出ましたよ。「私に全部の権限をください」と。
「楽しい場所づくり」は得意技

──球団経営はもちろん未知の領域のお仕事ですよね。
私はマーケティングが得意だし、社長経験もある。さらに、「大きな会社の動き」やロジックもわかる。私の過去の経験を総動員して挑める仕事だと思い、本社役員を辞めて片道切符でベイスターズの社長にしてもらいました。今度は1年で辞めさせられない、5年契約です。黒字化という唯一のミッションに向け、私は自由に動ける。だからキャリアの状態はプラス5。
──他にも球団社長に名乗り出る人はいたんですか。
いません(笑)。みんな「ババ案件」だと思っていたので。
当時のベイスターズは年間25億円ほどの赤字を出していましたが、プロ野球チームのメディア露出は膨大です。球団の赤字をマーケティング予算で補填できれば、親会社のDeNAの広告宣伝活動として十分成立してしまうわけです。
──赤字のままでも大丈夫、という見通しがあっての買収だったんですね。
しかし「せっかくやるのなら黒字にしろ」と会社は言う。こんな案件、誰も掴みたくないじゃないですか(笑)。周りは「どうせ失敗する仕事だ。だったら、辞めるつもりの池田にやってもらおう」という感じで、すんなり私が球団社長に就任できた。
──池田さんは、「イケる」という確信を持っていたのですか。
いや、そんな確信はまったくなかったです。ただ、「大きく変革し得る会社がある」「人生をかける価値がある」という印象はあった。ハマスタ(横浜スタジアム)は約3万人収容できますが、当時はガラガラだったんですよ。つまり、挑戦すれば伸ばせる余地がある、ということです。
私は横浜育ちなので、子どもの頃にちょくちょくハマスタに通っていたんですね。しかし、いざ改めて行ってみると、昔のハマスタと何も変わっていなかった。なんとなく汚れていて、薄暗くて、食べ物も美味しくない。わずかな観客は野球を応援するためだけに来ているので、イニング間はただのトイレに行く時間としての意味しかない。ゲームの結果だけが重要で、負けたら悲しんで、沈んだ気分で帰る。それだと半分の確率で楽しくないわけですよね。

──確かにかつて球場は野球ファンのための場所、という印象がありましたね。
だから私は「野球を見せる」から、「野球をつまみにしたでっかい居酒屋に遊びに来てください、楽しみに来てください」というふうに、ビジネスの根幹を変えたんですよ。
食べ物を美味しくして、音楽や演出でイニング間も楽しんでもらう。たとえ野球のルールを知らなくても、球場に来れば楽しい、という空気を作りたかったんです。楽しい場所には自然と人が集まってきます。そして、楽しい場所をつくるのは、私の得意技なんですよ。 博報堂時代の「暴君ハバネロ」のプロモーションもこれに近いアプローチでした。単に商品を宣伝するのではなく、まずはハバネロのブームを仕掛ける。メキシコから本物のハバネロを輸入して、ハバネロを使ったメキシコ料理を開発して、TVや雑誌に取材してもらい、まずは皆さんに「ハバネロというおもしろい食材」を知ってもらう。こうしてハバネロが人気になったから「暴君ハバネロ」も手に取ってもらえたんです。
──確かに「まずは、球場を楽しい場所にする」という球団再生のアイデアにもつながりますね。ある種、池田さんの仕事における必殺技ともいえるアプローチにも感じます。
いや、経営に必殺技など存在せず、とにかくいろいろなことに挑戦しなければなりません。経営者は、10の仕掛けのうち、ひとつでも当たれば名経営者だと私は思っています。名バッターならば3割打たなければなりませんが、経営者ならば1割当てればいい。だったら挑戦して、高速でPDCAをぶん回して、ダメだと思ったものは素早く止めて、また次の仕掛けを見つけていく。これが重要だと思います。
──まさに経営的手法ですね。
かつて、組織運営や経営という概念とスポーツの世界には大きな隔たりがありました。「スポーツも経営するものなのだ」という概念を採り入れたのが、私が寄与できた、パラダイムシフトだと思っています。
──ただ、パラダイムシフトには批判も付きものです。
批判はしょっちゅうでした。横浜の方や関係者から「勝手に変えるんじゃねえ」「野球界をどうするつもりだ」と怒鳴られたこともありますし、「素人が野球界で仕事できると思ってるのか」と言われたこともある。今だって、バスケットボール界では「さいたまブロンコスは一体何をやっているんだよ」と言われる。まだ誰もやっていないことや、「やってはいけない」と思われていたことを仕掛けて世の中を楽しませようとすると、ときに炎上もします。でも、なにかを変えたいと思うなら、逆風すら楽しめなければならない。仕事は物議を醸してこそ、まったく新しい世界と空気をつくるれるのだと思います。
40歳で人生が一回終わった。自分の道を探し続けた浪人時代

──球団が黒字化し大きな成果を残したといっていいと思いますが、球団社長退任時のキャリアグラフはマイナス5にされていますね。
ここでもやっぱり雇われ社長の限界を感じてしまうんです。親会社があり、私よりもっと上位の存在がいれば、どうしてもうまくいかないことが出てきます。企業なので仕方がないことですが、私みたいに鼻っ柱が強くて、どんな方法でも世の中を騒がせたいと思っている人間は、段々と企業は合わなくなってくる。5年契約が終了して球団社長を辞めて、ただの人になったわけです。
注目を集める世界から無職になって、まるで社会と断絶されたように感じました。マーケティングも球団経営もやり切って、ある人には「普通、60歳までに経験しそうなことを、池田は40歳ですべて経験してしまった」とも言われるほどでした。燃え尽きて、以降の4年、私の「浪人生活」が始まりました。
──40歳で、1回分の人生を経験してしまった。著作ではこの浪人生活を「愚かだった」と振り返っていますが……。
愚かでしたね。ベイスターズの社長を辞めたばかりのころは、とにかく何もしたくありませんでした。ただ、時間が経つにつれ、スポーツビジネスとして最大級の野球界で成果を出せたのだから、また世の中を楽しませる、夢のある仕事ができるのではないか、と思うようになってきたんです。
「浪人生活」の4年間、なにかしらの団体に加わってほしい、というオファーはたくさん来て、名誉職のような肩書きはたくさん付いてきますが、なにか具体的な行動が求められているわけではない。第一線を退いた後なら、こんな生活でもいいのかもしれませんが、私はいつだって、世の中を楽しませるために「自分がぶん回せるもの」を求めているわけです。
ついに出会った「さいたまブロンコス」で新たなスタート
──このどん底の浪人時代を経て、2019年にさいたまスポーツコミッションの会長に就任されますね。さいたま市と連携して、スポーツ政策を推進していくことになります。

球団経営に奔走していたとき、同時に成功させたいと思っていたのが、「まちづくり」でした。つまり、野球を軸にした地域活性化です。ベイスターズの球団社長としては道半ばで終えてしまった仕事でしたが、野球ではない、まったく新しい世界で挑戦する機会を得たわけです。ご存じのとおり五輪は延期になってしまいましたが、さいたまはサッカーとバスケの試合会場であり、五輪で築かれた資産を活用し、スポーツで地域を盛り上げることができるんじゃないかな、という予感がありました。あとは、「武器」があればいい。
──「武器」というのは?
経営には武器が必要です。横浜の地域活性ならば、「ベイスターズ」という強力なコンテンツがあり、「ハマスタ」というハードもあった。私はこの2つの武器をぶん回していたわけです。
さいたまに目を移すと、浦和レッドダイヤモンズと大宮アルディージャがあり、サッカーは非常に充実していますが、私はここにもう一つの武器が必要だと考えたんです。その武器こそが、プロバスケットボールチームでした。
仮に五輪が中止になったとしても、サッカーとバスケに対する熱や資産は残ります。これを受け止めるプロサッカーチームはあるけれど、プロバスケットボールチームがないんです。だったら、チームを作ればいいんじゃないかと。加えて、チームが生まれれば、さいたま市長が公約している次世代型スポーツ施設を拠点に活動できると考えたんです。
──バスケットボールという武器をいちから作ろうとされているんですね。
最初は新チームを作ろうと考えていたのですが、「埼玉ブロンコス(旧名)」という1982年から活動している名門チームがあることを知ったんですよ。かつてはさいたまスーパーアリーナを沸かせるほどの集客力を持ち、「バスケ界のジャイアンツ」と言われるほどのチームでした。しかし、いざオーナーに着任してみると何億円も負債を抱えていて、毎年何千万もの赤字を出している。加えて、地域住民の心も離れてしまっていました。
──それでも、ブロンコスのオーナーという道を選んだのですね。
ベイスターズで雇われ社長の限界、組織人としての限界を思い知り、忖度や世間のしがらみ……、そういうものを嫌というほど見ました。だからこそ、社長という肩書にとどまらない真のオーナーシップを追求したかった。株式を取得し“オーナー兼社長”になり、しがらみを全て取り払い、ブロンコスに打ち込む。これこそ自分が培ってきた全てを注ぎ込める仕事だと考えたんです。
そしていま、資金繰りして債務を返し、2020年7月1日からは新生「さいたまブロンコス」として再スタートできる状態まで持っていくことができました。それでも、周囲からは「なぜ、そんなどん底の小さいチームを拾うんですか」と言われてしまいますが。
──確かに、ベイスターズでのキャリアがあれば、もっと他のきらびやかな道を選べるようにも思いますが。
そのとおりかもしれませんね。ただ、なんで皆さんの期待するキャリアに私が乗っからなきゃいけないのか、と(笑)。私は浪人生活の4年間で、やりたいことを探し続けて、やっと出会えたわけです。成功するかどうかはまだわかりません。けれど、ようやくまたスタート地点に立てた。
──だからマイナス5だったキャリアグラフも、ここでまた一気にプラス5になっているのですね。このタイミングでのコロナ禍を、池田さんはどのように捉えていますか?
まったく関係ないですよ。もちろん試合はできなくなっていますが*2、コロナ禍は私にコントロールできるものではありません。今の状況でなにができるか、やるべきことを考えるだけです。
──ブロンコスの選手を、「選手兼アシスタントデザイナー」としても契約したり、ツイッターでチームカラーのアンケートをとったりと、枠にとらわれないユニークな改革が注目されていますね。ニュースを聞くとワクワクします。
ありがとうございます。世の中を楽しませるためにスポーツビジネスをやっているので。これからも楽しいニュースを出していきますので、期待していてください。
取材・文:いつか床子
撮影:タカハシアキラ
編集:野村英之(プレスラボ)