第二次世界大戦のさなか『奢侈品等製造販売制限規則』(奢侈品禁止令[七・七禁令]/昭和15年7月)で真珠の製造販売が禁止されたので御木本幸吉は薬品産業を始めることを決意。
真珠貝より第二燐酸カルシウムの薬品化に成功し、第二次世界大戦の開戦の間もない昭和17年4月に『コンキオリン蛋白質含有コロイド性燐酸カルシウムの製法』の特許出願を行い、翌年8月の認可を受け、製薬会社を設立しました。
当時は、企業整備令の「技術、設備、能力の優れたものだけを残し弱体企業は整理統合する」という趣旨に沿って、医薬品業界でも諸般の吸収合併などの整備が断行されており、単独企業体そのものが徐々に減少していた時代背景でもあり、やむなく既存の製薬会社を買収する方策が立てられた。新会社設立ができない情勢下にあり、おりしも政府の指導による企業合同が進められていた時期で、昭和18年に四日市市郊外にある伊勢薬業会社を買収し、資本金5万円で発足しました。