デル株式会社の採用・求人情報

<社員紹介>田中 浩平

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社員紹介
ハンカチ世代である私が30歳になって大阪で決意したこと
こうへいです。IT業界経験の無い私が、世界的コンピュータメーカーのDELLに転職しました。大阪のオフィスに勤務しています。まだまだ、わからないことが多く、目が回る忙しさで毎日が過ぎ去っています。しかし、今私がもう一度目指したかったマウンドに立てていることに喜びを感じています。ここまでの私の人生、今後の大阪、関西にかける気持ち、私のもう一度目指す甲子園についてお話させていいただきます。

スパイクがグローブに

Jリーグに憧れていた私は、小学校に行ったらサッカーをやるものだと思っていました。小学校入学と時期を同じくしてスタートしたJリーグの選手は自分のスターでしたし、近所の小学校でサッカーボールを追いかけてグランドで走りまわる上級生もキラキラしていました。

ある休日、父親が「サッカースパイクでも買いに行こうか?」というので私は有頂天になり、憧れていた選手のスパイクに気持ちを馳せてスポーツショップに行きました。スポーツショップに入ると今まで感じたことの無い匂い、ゴムの匂い、革製品の匂いなど少し大人びた気がして、これからいよいよサッカーが出来ると妙な緊張感がありました。

しかし父親は、サッカー用品売り場には行かないで、野球のグローブを手に取り、握りしめた右手のこぶしでグローブをパンパンと音を鳴らしています。父親はニコニコしていろいろなグローブを試しています。突然、父親は、

「こうへい、野球はいいぞ!」
「チームの戦いやけど、一人でも点を入れることもできるぞ!」
「甲子園ってでっかい球場があって毎年凄い試合をするんや!」

など、今思えば野球に限ったことではないのですが、何故かその時は、今まで知らない世界を知った様で、とても興奮しました。グローブを買って家に帰ってきたのに、母親が何も言わないのは子供ながらに不思議な気がしましたが、その時は用意周到な父親の作戦で野球を始めることになるとは全くわかりませんでした。

野球に明け暮れる

父親が今までと変わったように話しかけてきて、キャッチボールを毎日のようにやりました。父は野球が大好きで、ボールの投げ方やバットの素振りを手取り足取り教えてくれました。そして、小学生時代の軟式少年野球でエース番号を付けることが出来ました。父の指導で右投げながら、左打ちにもなりました。晩御飯時はオリックス・ブルーウェーブを応援し、イチロー選手の活躍に釘づけでした。小学生の時に日本での全盛期を目の当たりにし、自分に常に刺激を与えていました。

私は、1988年生まれの88世代です。甲子園大会で大活躍した「ハンカチ王子」と呼ばれた斎藤佑樹選手を初め、メジャーリーグで活躍する田中将大選手など、「ハンカチ世代」、「マー君世代」と呼ばれる世代です。その他に、アメリカで活躍する前田健太選手、ジャイアンツのキャプテンである坂本勇人選手、トリプルスリーを達成した柳田悠岐選手、シーズン安打記録を更新した秋山翔吾選手など百花繚乱の選手達と同世代です。

関西は野球が盛んです。私は、実際、田中将大選手のいたチームと対戦したことがあります。勝って、全国大会に進むことが出来ました。中学時代のボーイズリーグにおいても不動のエースで活躍することができ、イチロー選手のメジャーでの活躍と合わせて、自分も当たり前のように生涯に渡り野球を続けるものと考えていました。時間があれば、家の近所のブロック塀に、毎日、暑い日も寒い日も雨の降る日も、対戦相手のバッターをイメージして、一球一球大事に投げ込むのが日課でした。

また、その頃、低迷していた阪神タイガースに闘将星野仙一監督が就任し、ファイティングスピリットあふれる言動は、新しい野球の一面を見る気がして、自身の野球スキルも常に高いものにチャレンジしていくようになりました。

KGボーイへの憧れ

野球一筋だった中学生の私に新たな目標が加わりました。野球で活躍していていたので、甲子園を狙う高校からの野球推薦での入学のお誘いがあったのですが、地元近くの関西学院高等部で甲子園を目指したくなったのです。関西で、「KGボーイ」と言えば、スマートでお洒落で洗練しているイメージがあります。しかも、昭和3年の約90年前に甲子園での優勝もしている古豪であり、そこで思う存分野球がしたくなったのです。

進路指導の時に、思い切って担任の先生にその思いを告げました。先生は、

「何、寝ぼけたこと言ってんねん!無理無理!いくら野球が上手くても、勉強は別や!そんな簡単なものとちゃうで!野球がしっかり出来る高校があるんやから!そこに行くのが一番いい!」

と、全く受け付けません。確かに自身のその時の偏差値からみると大き過ぎるギャップがあり、大人になった今、現実的に考えると確実にあきらめる程のものです。しかし、その頃は、グイグイと速球で押しまくる自身のピッチングスタイルと同じで、不可能なことの意味もわかりませんでした。その日を境に、毎日寝ないで勉強を開始しました。家族に、「もう寝なさい」と言われなければ、寝ることすら忘れるくらい勉強に集中しました。

しかし、勉強は野球と違ってなかなか進歩しませんでした。模擬試験の結果でも、進路相談でも、「絶対無理」の状況でした。さすがの父親も野球を強引に勧めたのにもかかわらず、「別の高校もいい学校があるぞ!」など諭すほどでした。しかし、私は全く目標を変えることはしませんでした。母親と父親が家で言い争いをしているのが聞こえました。母親は、「こうへいは、一度決めたら絶対に変えない子よ。好きにやらせましょうよ」と言っていましたが、その頃の自分は、そんなことは当たり前だと感じていました。

周囲の冷ややかな目の中、塾の講師だけは応援を続けてくれていました。「こうへいならやれる。最後まであきらめないこと!」くじけそうになった時も、いつも冷静に励ましてくれる先生でした。その先生が、合格発表に一緒に行くというのです。私は、気恥ずかしかったのですが、関学校舎内での掲示板の場所に息をひそめて目指しました。そして、自分の番号を発表した時は、ホッとして肩の重い荷が降りた安堵感がありました。正直、完全燃焼して、喜ぶ元気は出てきませんでした。しかし、同行してくれた講師は、普段は冷静なのですが、その時は、自分のことのように小躍りして喜んでくれていました。それだけ難しく無茶な挑戦だったのかと、再認識したのです。

甲子園球場までの距離

母校の高校と甲子園球場は、同じ西宮市にあります。道のりで、わずか6.1キロメートル。斉藤祐樹選手の早稲田実業からは、492キロメートル。田中将大選手の駒沢大学苫小牧からは、1336キロメートルです。比較するまでもなく、圧倒的に近く、走って行けます。憧れのKGボーイになれた自分としては、絶対に甲子園球場で開催される高校野球大会に出られるものと確信していました。

中学時代にエースとして連投したせいか、肘を怪我していました。少し休んだのですが、チーム事情もあり、完全に治らない状況でも投げていました。この時に、周囲の大人達からは、「絶対に投げるな!後々に響くぞ!」と言われていのですが、無茶やってしまう自分の性格では、聞く耳を持たず、結局、肩を壊してしまい、せっかく入った憧れの高校でピッチャーはあきらめざるをえなくなったのです。

今まで、まったく考えられなかったスタンドから自分のチームを見る景色。それは衝撃でした。グランドを縦横無尽に走る仲間を正視できませんでした。甲子園球場には何度も言ったのですが、一度も球場内に立てることなく自分の高校野球の幕が下りたのです。

計画が実現しない!

本気で野球が出来ないので、目標を失った大学生のキャンパスライフでした。文化祭にもなるとキャンパスの華やかさは最高潮になったのですが、自分の中ではポッかり気持ちが空いていました。そして無理矢理楽しいことを見つけているような自分でした。

大学で3回生になると、将来の仕事を考えるようになりました。漠然と将来は会社の経営層である幹部になりたいと思うようになりました。会社にはそれぞれいろいろな発展可能性があるので、様々な業界と仕事が出来る環境を探しました。そしてIT業界であれば、様々な業界の会社の経営を支援、新規ビジネスモデル開発などできると考え、徹底的にIT業界の研究を開始しました。その可能性は果てしなく広く、会社のみならず、社会や未来までも変えることが出来ると実感しました。

20歳になった年に、不幸にもリーマンショックが起きました。これから就職活動を開始する頃です。IT業界の求人が激減し、しかも大阪・関西での求人は更に少なくなりIT業界の道は閉ざされました。更に、このままでは、就職すら出来なくなるとの不安もでるほど、就職戦線は厳しくなる一方でした。しかし、様々な業界と仕事をしたい気持ちは限られず、それが出来る業種である難関の銀行の内定を戴きました。

転機 - 自分交替

銀行では、新人の頃から段階的に仕事をして成果を出して、次のステップを狙っていきます。私は、必ずしもスタートダッシュが早いわけではないですが、野球と同じで一歩一歩実力をつけてきて、最短の入行6年で支店長代理になりました。様々な業界の社長さんと話をすることで、目標としていた様々な会社を支援していることが実現しました。

私が担当していた東大阪のお客様は、中小・中堅企業が多いです。素晴らしいアイディアで業績が好調の会社もあれば、構造不況に苦しむ会社にありました。ある日、可愛がってくれている社長に言われました。

「昔は今の会社の業界に入れば、一生安泰だと言われて頑張った。しかし、そんな未来などは夢物語だった。誰も先のことなどわからない。こうへい君も人生ある内にやりたいことやっておけよ」

今まで突っ走ってきて視野が狭くなっていたのか、目の前がパッと明るくなったような気がしました。

「オレのやりたいことは何だったっけ?」
「今でも、何かしたいことがあるのか?」

などと自問自答を繰り返すことが多くなりました。そして、IT業界でやりたかったこと、ITで経営を支援したいことなど思い出したりしました。

その時にDELLが大阪でインサイドセールスの人員募集していると知りました。その時点で既に、DELLの大阪では、パートナー企業や、大企業のお客様に対して積極的なビジネス展開をしていましたが、私が経験のある中堅企業を担当する営業部門が大阪に進出して人員増強するというニュースは、居ても立ってもいられない気持ちになりました。DELLのブランドが付いたコンピュータ製品は、お客様先でよく見かけていたので、とても馴染みがありました。

しかし、周囲からは、30歳を前にして異業種への挑戦は無謀と言われました。家族も小さい子供もいます。実際、面接官にも、「ご家族の反対とか無いのですか?最近は、ご家族の同意が無いと転職できない人がいるのです」と言われました。しかし、私は、「それは大丈夫です」とキッパリ答えました。自分自身の不動な信念に加えて、その時点で、既に妻に相談していました。妻は、私が決めたら道を変えないことはわかっていたからです。そして、30歳の誕生日に戴いたオファーレターに自分の名前を書き込み提出し、次のチャレンジに進むことを決めました。自分をもう一度勝負の場に送る「ピッチャー交替=自分交替」を誓いました。そして今は、東京での3ケ月の研修を終えて、大阪のオフィスで働き始めました。

丁度、2025年に 55年ぶりに大阪万博が開催することが決定しました。前回はとても盛り上がったとは聞いています。それを目にすることが出来ることに興奮しています。特に今回は、ITを駆使した万博を標榜しています。私を送り出しくれたお客様と約束した、大阪・関西を盛り上げるとの公約も必ず実現したいと考えています。

今は、まだ修行中なのでいろいろな社内の仕事を手伝っていますが、その中でもセミナーでの接客がとても好きです。お客様が悩んでいるような顔をしていると、ついお声がけしてお話したくなります。また、以前担当していたお客様がひょっこり来るような感じがしています。その時は、元気な姿をお見せしたいと考えています。

デル株式会社広域営業統括本部は、様々な経験を持つ仲間が集まっています。私の入社以降も続々と中途入社が入ってきます。インサイドセールスと外勤営業の融合タイプである進化型ハイブリッドセールスの登用への道もあり、自分も視野に入れています。本社からも応援する社員や幹部が多く来て、とても活気があります。是非、他にどんな仲間がいるのか見てください。そして興味ありましたら、ドアを叩いてみてください。お待ちしています。
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